特別寄稿 今年「茶山ポエム展」が30回を迎えた。節目に当り、茶山ポエム展に深くかかわってこられた2名の方に寄稿していただきました。

「茶山ポエム絵画展三〇周年に寄せて」
       元菅茶山記念館職員 矢田笑美子

            
 菅茶山顕彰会によって始められた「茶山ポエム絵画展」が30周年を迎えられるとのこと、心よりお祝いを申し上げます。これも偏に顕彰会始め、同展をあたたかくご支援くださいました皆さまのご尽力の賜物と元関係者として感謝申し上げます。同展三〇周年にあたり思い出話など寄稿させていただきます。
 さて、同展は教育者、漢詩人である菅茶山を広く子どもたちに伝えていくという趣旨から茶山の漢詩の意訳を鑑賞してもらい、そのイメージを絵に描くことで、その詩と人物への理解を深めてもらうというものです。
 その先駆けとなったのが、『まんが物語・神辺の歴史』(中山善照著、神辺を元気にする会一九八九 年出版)でした。
 同書に菅茶山の漢詩が「夕日」「冬至」「蝶」などに改題されて、わかりやすい意訳と英訳で紹介され、子どもに限らず誰もが菅茶山の漢詩をとても身近に感じることができました。さらに、「茶山ポエム・イマジネーション・パーティー」と題して、茶山ポエム(意訳)を音楽とラップで楽しむミニコンサートも催され、当時としては斬新なとり組みとして話題になりました。そういったことにも発想を得て、一九九三年に茶山ポエム絵画展が始まりました。(その前年一九九二年に菅茶山記念館が開館し、同展とともに三〇周年の節目を迎える)既存の茶山ポエム(中山善照氏意訳)に加え、新たに漢詩の選定と意訳を当時の顕彰会役員で教育現場OBの方々が熱心にとり組んでおられました。

 第1回当時は六〇〇点余りの出品点数でしたが、ワープロの時代でしたので、出品者情報はすべて手入力で、何をどこまで確認するかなど、作業にもかなり時間がかりました。その後、パソコンが導入されて平均的に約三〇〇〇点の出品数となって、作業にも要領を得て、現在のような形式で継続されています。
 審査は、当初から児童絵画の審査に定評のあった故縄稚輝雄先生が務められ、何回展からとは思い出せませんが、顕彰会理事・神辺美術協会理事長であった故長谷川樹先生もご一緒に務められました。審査会のたびに「毎回この審査会は楽しみなんですよ」と、両先生ともに実に手際がよく、溌剌とした姿が思い出されます。
 その後、審査は神辺美術協会に依頼することとなり、数年前からは審査会場を神辺文化会館小ホールに移すなど、年々手順も改善されながら現在に至っていると思います。作品の受付から審査、展示、表彰式、返却までの冬シーズンは本当に慌ただしい日々でしたが、展示会期中は、多くの子どもたちとその家族等で館内が一番活気に満ちていました。
 これまで記念館展のほかに、ふくやま美術館展、県庁・市役所ロビー展、医院展、町並み格子戸展々の移動展で広くPRしてこられた労力にも頭が下がる思いです。同展のあゆみは顕彰会のホームページに紹介されているとおりですが、三〇周年といえば、すでに親子二代に亘って出品されている方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。一層感慨深く感じられて、あらためて今日までのご支援に対し感謝の言葉しかありません。

○「茶山ポエム絵画展黎明のころ」
      元菅茶山顕彰会事務局長 渡辺慧明

 

 このところ首を痛めて町内の整形外科医院に通っている。ある日、リハビリ室正面の椅子に額装された一点の絵が置かれていた。
「令和4年度ポエム絵画深安地区医院展」画題「雪の日」そして町内小学校1年生の名前が書かれていた。思わず近寄ってしみじみと眺めていると「この子をご存じなんですか?」案内の女性が話しかけてきた。
「いや、この絵画展が始まった頃にかかわっていたものですから懐かしくて。でも、ずいぶん昔のことです。」「そうなんですか」
 今年はポエム絵画展30周年だという。そんなに長い年月が経ったのか。この絵画展は多くの有志のご支援とご協力を得ながら今を迎えている。
 そして、この絵画展を語るにつけ、欠かすことのできない人がいる。
 故岩川千年先生である。
 岩川先生は福山市内の中学校長を退職の後、旧神辺町教育長を務められた。毎月1回の町内校長会では「終わったらワシに5分ほど話させてくれんかのう。」と言われ「ワシは町内の全部の学校に茶山の絵を描かせたいんじゃ」と繰り返しおっしゃっていた。
 その頃(平成4年)「まんが神辺の歴史」が発刊され、著者の中山善照氏による茶山詩の紹介があった。原文から読み下し文、そして子ども向けの訳詩には心和む絵が添えられていた。今、子どもたちが画題にしている「茶山ポエム」がここに生まれたのである。さらに年を追って画題は増え、子どもたちはより多くの選択肢から豊かなイメージを膨らませるようになった。

 ある時私は岩川先生に尋ねた。
「先生は教育長を退任されたあと何をされますか?」
「そりゃポエムよう、あんたが退職したら、手伝うてくれんかのう」
私が定年を迎えるとすぐに、先生が拙宅に来られた。「これからお金をもらいに行くから一緒に来てくれえ、あんたは領収書を書いてくれえ」
 町内の医院、歯科医院をくまなく回って寄付を募ると言う。医院の窓口に行くと「ちょっと先生にお会いしたいんですが...」
「先生は今、診察中ですが...」「そこをちょっと...」
 何事かと出てきた医師に当顕彰会会長高橋孝一氏の名による趣意書を手渡し、患者を待たせて説明する。まだゴム印も角印も作っていない。交渉が成立すると領収書づくり。手書きで「菅茶山先生遺芳顕彰会」(当時の正式名称)渡辺慧明 印。大急ぎで書いて渡すのが私の役目でした。その強引さにあきれながらも岩川先生の強烈な意欲と情熱に圧倒される思いでした。
 こうして先生自らが体を張って集められた貴重な資金をもとに町内6小学校1年から6年生まで全員、一部保育所、幼稚園、中学校からの応募も加わり、菅茶山記念館展、医院・歯科医院展、町並み格子戸展、やがては福山市役所ロビー展と発展して行った。

 栄枯盛衰、茶山ポエム絵画展も我々民間団体の手を離れ、運営を公的機関に委ねるようになりましたが、播かれた種が大きく育った今、かつてそれを描いた子どもたちが立派に成長し、社会の担い手として活躍している姿を思うにつけ、一入の感慨を覚えるとともに、これから先も神辺に育ち神辺をふるさととする人たちの幼い日の思い出として深く心に留まることを願うこの頃である。
 
 茶山研究
一、廉塾生への追悼詩?

 廉塾に入塾した人物については「塾生預銀差引算用帳」にあるが詳細は不明である。多くの若者が全国から学びに訪れているが、志半ばで死去した若者がいるので紹介する。 
○高橋子貫
沼隈郡山手村(現福山市山手町)高橋周右衛門の
三子、通称は多田吉、字が子貫。年十三歳で入塾し留寓四年目の文化10年(一八一三)12月26日、廉塾で没する。その経過について茶山の日記に次の記述(抜粋)がある。

 12月24日 唯吉腹痛 招滋野医診之
    25日 唯吉 兄市郎介來 
       招三箇看 唯吉疾
    26日 唯吉父母來 屬絋
「子貫急病」の報を山手村の家族に知らせる。兄や両親が駆けつけ医師に診せたが没したのである。墓は山手村三寶寺にある。
 この時期、茶山は体調がすぐれず、藩主正精の出府要請があったが体調不良を理由に出発を延ばしていた頃で、子貫急死の対処はできなかった。回復した茶山は床を払うと急いで神辺を出発している。山手村にある子貫の墓に参ったのは没後三年目で次の詩を詠んでいる。 
 
  子貫墓 『黄葉夕陽村舎詩』 後巻六ー十六
 三歳淸揚在目前 三歳の清揚 目前に在り
 奈何宿艸已?? 奈何(いかん)せん 宿草 已に??(せんせん)
 却忻一面佳山水 却(かえ)って忻(よろこ)ぶ 一面の佳山(かさん)水(すい)
 占作君家好墓田 占めて 君家の好墓田(こうぼでん)と作すを
 
【大意】眉目秀麗な子貫の姿が目前にあるようだが
既に三年が経ち、墓には宿草が??と伸びている。
せめてもの喜びは、眺望の佳地にあって、君の永住
地をここに占め、好墓地となっていることである。

茶山は「子貫墓」の詩を詠んだ後、遺族の要請を
受けて次のような跋「書子貫墓下詩後」を送っている。それは『黄葉夕陽村舎文巻四ー八』にある。 

 ○森岡綱太
 名は惟寅、字は士直、綱太は幼名で号はない。讃岐国琴平の酒屋炭屋保治の子。炭屋は琴平随一の富豪で金毘羅金光院の御用金を掌る家柄であった。
 茶山の日記に、
「(文化十四年九月)十三、晴、小雨數次、月明し讃岐の三野信平(茶山弟子)、童綱太を携えて來る・・」とあり、12歳で茶山に入塾する。綱太は当時、神童として聞えの高かった少年であった。
 北條霞亭は弟碧山宛の書簡の中で
「先日來讃州より才子の童子滞留いたし候、森岡綱太と申すもの、十二歳にてふりわけ髪の小児に候へども、書物はよくよみ候。史記左傳なども一通手を通し居候。先は奇童と申すべきもの也」と認めている。 
 しかし、文政4年(一八二一)4月11日、帰省先の琴平で病没する。葬儀には門田朴斎や塾生が参列したという。6月には綱太の両親が訪ね来て、謝意を表している。「森岡綱太墓誌銘」は茶山の撰で次のように語っている。
 「綱太、年始めて十二、海に抗して來り、余の塾に寓す。白晳纖?、羅綺に勝えざるが如し。詩を賦し、書を作り畧已に緒に就く。而して人と應接する老成人の如し。人皆愛慕する焉。後略」(もと漢文)

二、 頼山陽史跡資料館を訪ねて
         菅茶山顕彰会副会長  黒瀬道隆
  12月9日、頼山陽史跡資料館(広島市)を訪ねた。企画展「青年頼山陽」の見学である。
 展示は「山陽の幼少期から廉塾に来る」までの足跡を紹介している。展示内容を簡略に紹介する。
○幼少期の山陽
 山陽は安永9年(一七八〇)竹原出身の儒学者頼春水と大坂の儒医飯岡義斎の娘静子(号梅?)の長男として大坂江戸堀に誕生。翌年春水が広島藩儒に登用され広島に移転。天明5年から広島の生活が本格的に始まる。
 山陽の幼名は久太郎。幼少期から病弱で精神的にも不安定なことが多かった。天明6年には「癇癖(かんぺき)の症」を発し、以後持病として久太郎を苦しめることとなる。     
 春水の後継者として期待され、天明8年に学問所に入り、築山嘉平に武芸も学ぶ。天明8年6月12日、茶山は広島・宮島に遊んだ際、『遊芸日記』に山陽と対面しその聡明さを認める文を記している。

○江戸遊学とその後の山陽
 寛政9年、江戸遊学のため頼杏坪に同行し、道中の旅日記「東行手記巻」を残す。
 江戸の昌平黌に入学。母方の叔母の夫尾藤二洲に世話になり、概ね真面目に学業に励んでいたという  往時に廉塾に立ち寄り「夕陽黄葉(・・・・)村舎図」を描いている。江戸からの帰途面会した茶山は「頼久太郎寓尾藤博士塾二年、歸路過艸堂 因賦此爲贈」(『黄葉夕陽村舎詩』前五―一)の詩を詠んでいる。
 寛政10年(一七九八)4月、帰郷した久太郎は鬱病を発症し、「気色あしき」日が続いた。母の「梅?日記」には宮島の管弦祭に連れ出すなど療養に心を砕いている記述がある。
 翌年2月、藩医御園道英の娘・淳子と結婚。しかし、夜遊びが多くなり、春水から戒められている。また、詩文会「輔仁会」に入り、文章の錬磨に取り組む。久太郎は、心身に不安を抱えながら、悶々とした日々を送っている。

○出奔~山陽脱藩始末 
 寛政12年9月5日、竹原の大叔父が死去。春水の名代として弔問に向かうが、香奠を持ったまま出奔。頼家は大騒ぎとなる。
 久太郎が京都に居ることが判明し、広島に連れ戻される。10月29日神辺に到着。茶山も逃亡を防ぐため警護に当たったという。頼家では大急ぎで座敷牢を設けて、久太郎は幽閉されることとなる。
 享和元年(一八〇一)2月、淳子と離縁となり、長男聿庵が誕生するが、頼家に引き取られる。
 座敷牢は「囲」(仁室)と呼ばれ、久太郎は「憐二」と称し、読みたい本を差し入れてもらっている。「日本外史」はこの「囲」の中で執筆される。
 脱藩は死罪となる重罪であるが、頼家や周囲の人々の奔走で「押し込め」となり、放免まで足かけ3年。謹慎はさらに2年続く。

○雌伏~廃嫡後の日々~
 享和3年(一八〇三)12月、幽閉を解かれる。文化元年「廃嫡」となり、春風の子景譲が養子とな
る。久太郎が自由の身になったのは文化2年であるが、無聊を囲う日々が続く。久太郎は著述を続ける傍ら、景譲と遊郭へ出かけるなど夜遊びが過ぎ、梅?を悩ませ、春水から叱責を受けている。
 文化2年(一八〇五)、春水は久太郎の幽閉生活の保養と景譲の継嗣を先祖に報告するため、連れ立って竹原に赴く。この時、茶山も招かれていた。
 久太郎は屡々茶山に書簡を送っており、文化4年には「将来への不安や悩みを吐露し、茶山を頼りにして好処置を期待する」等の書簡を送っている。
 久太郎の将来を案じた春水は、茶山に相談。文化6年12月26日(一八〇九)廉塾の都講として神辺に出発する。30歳であった。
 資料館では主任学芸員花本哲志氏にお世話になりました。

 茶山は生涯で何首の詩を詠んだのか。『黄葉夕陽村舎詩』だけでも二千四百を超えているし、若い時に詠んだ詩集『花月吟』もある。さらに、どの詩集にも記載していない詩が『菅茶山遺稿集』として纏められてもいる。一説では四千首はあるのではないかとされる。漢字は旧漢字で新漢字しか知らない我々には難解であるし、白文になるとお手上げである。現在、学校教育で漢文の学習時間が減少して、ますます漢詩の世界から遠ざかっている感がある。しかし、有難いことに、研究者の方々が読み下し文にし、さらに漢字の意味の解説までも提供していただいているのを頼りにして、茶山詩に触れることができる。                     
 顕彰会として、「茶山詩」に取り組むことは必至であり、茶山詩を少しでも知ってもらう取り組みが求められているのではないか。会報に「茶山詩」を紹介し、茶山詩の世界に入っていただきたいと願っている。

茶山詩の世界
一、子どもを詠った詩 
 茶山詩の特長は農村詩にある。茶山が見た日常の農村の様子を、農民の辛苦や喜びを通して表現している。今回は子どもを題材にした詩で、思わず微笑んでしまう詩を紹介する。

○夏日雜詩  『黄葉夕陽村舎詩』 後巻八―二十 
村童日々挾書來  村童 日々書を挟(はさ)みて来たる
講席偏愁暑若猥  講席 偏(ひと)えに愁う 暑(しょ) 猥(わい)するが若(ごと)くなるを
歸路逢牛臥凉處  帰路 牛の凉処(りょうしょ)に臥(ふ)するに逢う
直將牧竪疊騎回  直ちに牧竪(ぼくじゅ)と畳騎(じょうき)して回(かえ)る
〔猥〕うずみ火でむし焼きにする。〔凉〕涼の俗字。〔将〕と。〔牧竪〕牛飼いの子。〔畳〕かさねる様

【大意】 村の子どもたちが毎日書物を小脇に抱えて廉塾にやってくる。講席は火であぶるような暑さで辛いことだろう。だが気づかうには及ばない。帰り道で木陰に臥せっている牛に出会ったとみるや、牛飼いの子との交渉がなったのか、二人乗りして帰って行った。
(情景)廉塾には子どもたちも勉強にやってくる
真夏の暑い日、汗がダラダラ出るような昼下がり、暑すぎることを「猥するが若し」と表現している。
 そこで「もう授業は終わり」というと、「わ~、 やった」と喜んで帰る。高屋川の土手の木陰で休んでいる牛飼いの子と話をつけて、牛に二人乗りして帰って行ったというのである。その様子が手に取るようにわかる。文政2年72歳の作。

○ 路上 二首 ?『黄葉夕陽村舎詩』前巻三―十六  
  晴川綵舫影  晴川 綵舫(さいほう)の影
  午市畫橋聲  午市(ごいち) 畫(が)橋(きょう)の声 
  垂髪誰家子  垂髪(すいはつ) 誰が家の子ぞ
  累騎老豕行  老豕(ろうし)に 累騎(るいき)して行く 
〔綵舫〕美しく飾り付けた船。〔畫橋〕絵にかいたようなきれいな橋。〔垂髪〕おさげの女の子。〔累騎〕二人乗り。〔豕〕豚、いのしし。

【大意】 晴の日、川には管弦祭見物用の船が色鮮やかに飾られ浮かんでいる。昼下がりの城下町のきれいな橋を大勢の人が行き交っている。おさげ髪をした子はどこの子だろうか。あれっ、老いた豚に二人乗りをしているぞ。
(情景)天明8年(一七八八)6月、41歳の茶山は弟子藤井料介(暮庵)を伴って、宮島の管弦祭見物に出かける。10日、頼春水宅を訪ね久太郎(山陽)たちが出迎える。市内の見物では、管弦祭のために飾り付けた船が浮かび、賑やかに行き交う人々の多さに驚く。茶山がびっくりしたのは、幼子が豚に二人乗りしていく姿だったのだろう。
【広島になぜ豚がいる】 
 当時の日本では豚を家畜として育て、食用にする習慣はなく、この豚は江戸時代に来日した朝鮮通信使に食用
として提供するために、長崎から取り寄せ、余った豚を城下に放したことが起源のようである。

○ 螢 七首((四) 『黄葉夕陽村舎詩』後巻七―四  
 連夜収來滿練嚢  連夜 収め来たって 練嚢(れんのう)に満つ
 柳陰懸照納涼牀  柳陰 懸けて照らす 納涼の牀(しょう)
 童言螢火亦眞火  童(わらべ)は言う 螢火(ほたるび)も亦(また) 真火(まひ)
 揺扇將然加手陽  扇を揺るがせば 将(まさ)に然(も)えんとし 手を加えれば陽(あたたか)しと
〔練嚢〕ねりぎぬで作った袋。〔牀〕こしかけ。
〔眞火〕火の美称

【大意】毎晩、練り絹の袋に蛍を捕っては入れ、捕っては入れているので蛍袋が一杯になった。その袋を柳の枝にぶら下げて、涼み台の灯にする。ある子どもが言う。蛍の火も本当の火だよ。ほら、団扇で仰ぐと明るくなるし、手を添えると暖かいよと。
(情景)文化13年茶山69歳、老境に達した茶山は蛍狩りにも億劫になりかける年齢。近所の子どもが蛍を沢山捕まえ来て、柳の木に懸けている。茶山は涼み台に座り一緒に眺めている。子どもが言う。「蛍の火も本当の火だよ。団扇で仰ぐと、ぱあ~っと明るくなるし、手を添えると暖かいよ」と。
子どもがいなかった茶山は、近所の子どもたちとこのような触れ合いをしていたのだろう。

二、「大人のための茶山ポエム絵画」

 第2回学習会の中で、理事山下英一さんが茶山詩の内容をイメージした日本画を発表された。 
 山下さんは会報32号で、「毎年3000点を超える応募があり、子ども達にとって貴重な情操教育になっている。私は審査員として参加していたが、審査は嬉しい反面、審査に苦労していた。(中略)
放課後児童クラブ教室に行くと、画一的な色彩のものが多い。私が自分の思いで、自分の色で描き子ども達に見せるとみんなが一様に驚く。茶山ポエム絵画展は子ども達の成長に大きく寄与している」と記されている。
 山下さんは、子どものポエム絵画展があるが、大人のポエム絵画があってもいいのでないかと、「大人の茶山ポエム画」に挑戦され、会で発表された。
 題材は子どもポエム絵画展では「夏の思い出」とある「夏日雜詩(九)」を題材にした作品である。
 
 「夏日雑詩(九)」『黄葉夕陽村舎詩』後八―二〇
 
 凉棚待月向渓濵 凉棚(りょうほう) 月を待ちて渓浜(けいひん)に向う
 恰値前峯上半輪 恰(あたか)も値(あ)う 前峯(ぜんほう) 半輪を上(のぼ)す
 童子爲儂添勝概 童子 儂(わ)が為に 勝概(しょうがい)を添う
 聚沙激水作金隣 沙(さ)を聚(あつ)め 水を激して金(きん)鱗(りん)を作す
 
〔大意〕谷川のほとりで、涼み台に座って月の出を
待っていると、ちょうど前の峰から満月の半分が顔を出した。日中、私のために子どもたちが好い景色を添えようと、砂を集めて堰き止めて、いきよいよく水を流し込んで、その中に月を映して金の鱗を作って見せてくれた。

廉塾あれこれ
一、特別史跡「廉塾ならびに菅茶山旧宅 保存整備現地見学会」が開かる。

 10月16日、神辺観光協会主催「神辺城下歴史まつり」の一環として、福山市文化振興課による現地説明会が実施された。
 保存整備事業は平成29年度から調査・基本設計に着手され、令和14年度に完了する計画である。上記の写真は見学会の様子で、進捗状況を記した資料が配布され説明があったので紹介する。
         
○講堂・付属施設修復中
 講堂は寛政3年(一七九一)に建てられ、寛政9年、藩の郷校として認可された「桁行六間梁間二間半」の建物で、後の時代に北側一間、東側の縁、南側半間の犬走りが追加された。西側も槐寮(台所)との間に増築されたことが判明した。
工事の内容は現場に写真で紹介されているのでその様子を知ることができる。

○祠堂修復終了
 令和4年3月、祠堂の修復工事が終了し、元の姿に復元された姿を見ることができる。
 祠堂とは位牌が安置された場所で、茶山とその一族の位牌が安置されている。内部は、位牌室、4畳半の和室、風呂を供えた物置からなり、沐浴した後に茶を喫して祭祀を執り行っていたのではないかと考えられる。

廉塾の見学は土・日や祝日等に観光協会のボランティアが対応されている。

二、修復現地説明会に参加して 
          菅茶山顕彰会会長 藤田卓三

 令和4年10月「神辺城下歴史まつり2022」(神辺町観光協会主催)のイベントとして、工事担当の福山市文化振興課主催の現地説明会が行われ、約200人が参加した。
 見学者はヘルメットを着用し、市職員や工事担当者の案内で、普段は入ることができない解体現場を間近に見学することができた。増設された建物北面を除いて、小屋組部材(垂木など)などの痛みが少なく、茶山が新塾を永続する堅固なものにと考えていたことが実感できた。
 昨年度から講堂は素屋根で覆われ待望の修復工事が始まり、屋根瓦・野地板・畳・床板が解体され、破損の著しかった建物北部分の一部は大ばらしによる解体も行われている。
 破損状況は全般的に大きな破損は見られないが、建物北面の倒れ・ゆがみが大きく現在は調査と修理計画が進められているとのこと。
 興味深かったのは、寛政2年(一七九〇)頃に建てられた講堂がその後増改築され、現在の姿になったことを目で確認できたこと。即ち、西側にあった住居(槐寮)と接続する和室・納戸が増築されていること。南側全体が半間増設され玄関が設けられ、東側に竹縁が作られ、北側には和室・板間などが増設されている。茶山と後継者たちが着実に塾経営を継続していったことが実感できた。廉塾保存整備工事は10年がかりだが、来年度からは講堂の組立と修理が本格化するとのことであった。早期の修復が望まれる。        

三、「廉塾ならびに菅茶山旧宅」保存整備事業
   「福山市議会だよりNO86号」より引用

〔質問〕榊原則男議員(水曜会)の質問内容
 適切に保存・活用し、次世代へと確実に継承するため、二〇一九年からは本格的な保存整備事業が開始された。それに伴い駐車場整備も計画されている。それぞれの進捗状況とスケジュールは。
〔回答〕
 二〇一八年度から、保存整備事業に着手し、昨年度までに発掘調査や祠堂の半解体・組み立て工事などを完了した。現在は、講堂の実施計画に取りかかっており、二〇二四年度、講堂の修理が完了予定。その後は茶山旧宅・中門・土蔵などの整備を順次予定し、二〇三二年度の保存整備の完了を見込む。駐車場整備は二〇二〇年度に用地取得、実施設計などを行った。今年度はブロック塀改修になど取りかかることとする。一般車両は二〇二四年度中、中型バスなどは二〇二七年度共用開始にむけ整備を進めている。

 特別寄稿
一、廉塾バラは庚申バラ
   ~ 神辺宿民が楽しんだバラ ~
 
         神辺宿文化研究会 菅波哲郎  

 廉塾の見学者への説明ボランティアをして十数年になる。その間、中門左側に美しい花を咲かせるバラは、時に「何故、西洋バラが廉塾なのか」と違和感を持っていた。
 二年前の春、ボランティアガイドをしていた時福山市バラ課職員が「このバラは古い。もしかしたら江戸時代から繁茂していたのでは」との一言があった。早速、古木のバラを扱っている専門業者 に、花、葉っぱ、実、棘、そして枝ぶりの写真をメールで送った。返事は「庚申バラです」との回答。
 原産は中国で古来から日本に伝来し、四季を通して花を咲かせる四季咲きとの説明であった。早速、菅茶山の資料に「薔薇」の二文字が記されているのか否か。詩集『黄葉夕陽村舎 遺稿巻之一』文政四年(一八二一)作「片岡珉夫に訪われ、韻に次す」にあった。 
   
   次片岡珉夫見訪韻 片岡珉夫(かたおかたみお)に訪(と)われ 韻(いん)に次す
 対酌閑看晩雨飛  対酌(たいしゃく) 閑(しず)かに看(み)る 晩雨(ばんう)の飛(ひ)
 尊前香霧爛薔薇  尊前(そんぜん)の香霧(こうむ) 薔薇(ばら)を爛(ただ)れさす
 即逢鶯語能呼友  即(ただち)に鶯語(おうご)の能(よ)く友を呼ぶに逢(あ)うも
 無奈鵑聲苦勧歸  奈(いか)んともするなし 鵑声(けんせい)の苦(ねんごろ)に 帰を勧むを
〔対酌〕二人向かい合って酒を飲むこと。〔晩雨〕夕方の雨。〔尊前〕酒樽の前。〔鶯語〕鶯のなき声。〔鵑声〕ほととぎすの鳴き声。鵑はほととぎす。田植え頃に日本にやってくる渡り鳥。杜鵑・時鳥・子規・蜀魂等の沢山の異名を持つ。「催帰」の 異名もある。

【大意】片岡珉夫の来訪を受け、ふたりで酒を酌み交わしながら、飛び散るほどに激しい晩雨を静かに眺めている。
 残念なことに、酒樽を前にして香ばしい霧が立ち込め、薔薇の花を爛れさせた。折しも鶯の友を呼ぶ声が聞えたのに、ほととぎすの鳴き声を聞くと、ねんごろに帰ることを勧めているようだ。
      ※片岡珉夫 元塾生。象頭山多門院主

 この詩で、廉塾には歴史事実として「庚申薔薇」が美しい赤色の花を咲かせていたことを確認できた。 さらに、茶山詩に「薔薇」の二文字を探していくと、詩集の『前編 巻之二』 天明四年(一七八四)の詩の中に次の詩を見ることができる。 

  夏日田家同士信子発子晦賦
   夏日 田家に子信(ししん)子発(しはつ)子晦(しかい)と同(とも)に賦(ふ)す
 十里晴輝落碧渓  十里 晴れ輝き 碧渓に落つ
 家家曜麦?橋西  家家は麦を嚶(さら)す?橋(いきょう)の西
 桑陰半転薔薇径  桑陰 半転すれば 薔薇の径(みち)
 穉子朱朱喚母鶏   穉子(おさなご) 朱朱(しゅしゅ)として母鶏を喚ぶ
〔田家〕田舎家、農家。〔十里〕十の里、ここでは村里という村里すべての意 。〔?橋〕土でできた橋。〔桑陰〕桑の木陰。〔半転〕反転と同じか。反対の方向。〔薔薇〕しょうび ・バラ。〔穉子〕 幼い子ども。〔朱朱〕鶏を呼ぶ声。〔喚〕鳴きたてる。
※士信 姓は藤井氏、暮庵の義父。子發 中条の人。子晦 藤井暮庵のことで、廉塾の都講を務める。

【大意】村里中、見渡す限り晴れ渡って 日の光をあびて碧い渓水がきらきら輝いている。土橋の西側の家々では麦の晒し干し。桑の木陰の反対には、薔薇の咲く道が続いている。幼い子供は鶏を追いかけて母鶏を呼び続けている。のどかな農村の夏日であることよ。 
  この詩は、「片岡珉夫」の詩よりも三七年早く詠じられている。また、茶山の文政二年一〇月一三日の日記中に「福山藩士に薔薇の数枝を届ける」という記事があることから、神辺宿や近村の各地に繁茂していたことを連想させる。
ところで、昨年(令和四年)、神辺学区まちづくり推進委員会は三〇〇本の廉塾バラの挿木苗を育成講習会で参加者に苗を配布した。これから、「神辺宿の廉塾バラ」は四季を通して、学区地域のみならず各地で美しい花を咲かせ、多くの人々に親しまれるであろう。

二、廉塾バラの苗木配布
        神辺学区まちづくり推進委員会
 廉塾バラの「挿し木」「鉢替え」「苗木配布」に取り組まれた。今後も栽培講習会も開かれる予定であり、廉塾バラが地域住民の手によって広がることを期待したい。


三、超群の一鶴「廉塾並びに菅茶山旧宅」
             顧問 上 泰 二

 廣瀬旭荘(豊後日田・兄淡窓「咸宜園」塾主の養子)はここ傘寿に至る詩聖茶山先生浮世の宿、廉塾へ五カ月間、逗留、傍近くに居て、何くれとなく老師の面倒を見ていたが、8月、兄淡窓へ托された書状を懐に帰郷した。軈て、茶山は最期を看取ってくれる肉親妹好と姪敬へ「臨終訣妹姪」(遺稿巻七)をSwan Songに他界した。
 その前々年、文政八年(1825)3月16日、笠岡の緑陰亭で開催された尚歯会に出席している。林多恵子氏のご教示によれば、尚歯会とは、「よはひを尚ぶ会」(敬老会)。中国で877年、白楽天が開いたのが嚆矢。主人を含む七人の老耆文士が集い、それ以外は相伴として列席、詩歌を作り遊楽する習とか。
 この日の招待者は他に賴春風、後藤漆谷。それに、後に「備中笠岡尚歯記」を依頼された木村雅壽など錚々たる老耆英たちがいたが、それぞれ、自己都合でやむなく出席できなかったと伝えている。
 
 「緑陰亭集分得覃」 菅茶山(遺稿五―二)
  原文『茶山詩五百首』451㌻ 所載
    島谷真三・ 北川 勇共著 
    
【大意】(翻案・補遺) 
 亭を繞る樹々は新緑がしたたるばかり。偶々、高齢者を集めて来客一同が楽しんだ。
この日、出席者は15人。緑陰亭主橋野李山81歳、桃甫80歳・道光上人80歳・小寺清先・茶山78歳。80を1つ超える亭の主人を長に推し、年齢を総計すると、上位5人で397歳。後3歳足りないのが恨めしい。西山拙斎子息65歳・僧珂月61歳を加え7人。その他8人は相伴、壮健で数に入れなかった。
 雨声が杯を勧め、清興を添えてくれ、鳥の鳴き声も嬉し気味、雅談を弾ませてくれる。
 自分は病弱だが、幸いなことに未だ全く衰えては居なく、松柏(常緑樹=節操堅固)の如き老高士と交わりを得たことで、恥ずかしながら亦生き甲斐を覚えた。(文責 筆者)
 しかし、遺憾ながら、この集いの半年後の9月11日、桃甫が、相次いで2年後、李・清先が茶山に先立っている。因みに、道光上人は文政12年、84歳で入寂している。
  
 茶山は生来、「沈痾」のため「微醺・少飽」息災に努め長寿を授かってはいたが、衰老のため、「飛鳥川の渕瀬常ならぬ」浮世の掟には抗う術もないことを実感する現実に直面する。
 文政9年5月19日、茶山は夢のような「四十餘年」を過ごした賢夫人宣(享年70歳)を永久に喪い、「悼亡」(遺稿巻六)に痛恨の心情と独り身の寂寥を詠んだ。
 顧みると、茶山と宣夫婦は子ども運に恵まれなかった。そのため、茶山は生涯、後継者問題に悩み続けた。
 そこで、父樗平と「先十七回忌祭郷例行香涙餘賦此」(後編巻四)で偲んでいる賢母半の間に授かった五人弟妹の子の中から、跡継ぎを選ぼうとした。いずれも、好学だったが、次々に早世。血族外の候補、塾頭賴山陽は出奔、北条霞亭も病没。養子縁組みしていた甥門田朴齋(妻宣の甥)は「傲慢過ぎる」と死の直前に離縁した。伯母宣の他界で強力な後援者を失ったことも一因かも知れないと伝えられている。 
 最終的に、血族の菅三(自牧斎・甥萬年と姪敬の子)が跡を継いだが、生まれた4人の子は夭折してしまい、万延元年(1860)、51歳の生涯を閉じた。宿命とはさこそそのようなものか、断絶の危機に直面した廉塾を継承したのは、他ならぬ門田朴齋の五男晋賢であった。
 故髙橋孝一会長は、「わが故郷の『廉塾並びに菅茶山旧宅』は安藝の宮島厳島神社と肩を並べる国特別史跡。自らが提唱したロマンチック街道313で真珠の首飾りのように要所要所で光を放つ我がふるさとのかけがえのない財宝、その超群の一鶴として、末永くとともに磨きをかけ、次世代へ伝えることでふるさと再生を・・・」が口癖だった。
 遺憾ながら、近年、公共放送の公開録画番組でも「ふるさと自慢」の話題にならないことがある。茶山詩は「小難しい」が一因と噂されているが、正鵠を射ているだろうか。
 平成5年、末裔菅好雄氏の英断で、わがふるさとの財宝は広島県立歴史博物館に受託され、20年間に亘り、資料整理・調査研究などを経て、平成26年「茶山関係資料」として国重要文化財として指定された上、平成30年、新設の「近世文化展示室(菅茶山の世界)」で常設展示されている。現在進行中の「廉塾修復整備保存計画事業」の早期竣工と併せて活用、ふるさと創生の核「ふるさと自慢」の種にしてもらいたい。

 顕彰会だより
一、定期総会開催と記念講演を開催
 5月14日、コロナ禍の影響で3年振りの定期総会が神辺商工文化センターで開催された。議長に上泰二さんが選出され、令和3年度事業・決算報告、4年度事業計画予算・役員体制など審議の後、規約の一部改正と新設が提案された。
 改正の要点は、会員と会費の項目で「公共団体、学識経験者、休会者の会費を免除する」とする。菅茶山記念館などから役員として入っていただく方や助言を求める学識験者の方の会費の免除にすること。また、「髙橋孝一記念基金と基金運用規則」の新設の提案があり、執行部提案が可決された。
令和4年新役員体制は次のとおり
     (順不同、敬称略)
 顧問   鵜野謙二・上泰二・吉澤浩一
 会長   藤田卓三
 副会長  武田恂治・黒瀬道隆
 理事   川崎行輝・松岡明美・羽原知子
       小林貞子・山下英一
 事務局長 武田恂治(兼務)
 会計   嶋田時市
 監事   皿海弘雄・安原美津代
 
二、 記念講演「菅茶山と葛原しげる」
   ~郷土の偉人に想いを寄せて歌う~
     歌手  奥野純子さん  ピアノ 山岡珠代さん         
会場に茶山詩を基に作詞作曲された曲と葛原しげる作詞の曲が、山岡珠代さんのピアノに乗って奥野純子さんの歌声が響き渡った。
 また、高校生の海野智暉さんのバイオリン演奏も会場を盛り上げた・コロナ禍で「生の演奏」に飢えていた参加者も一緒に歌うなど有意義な時間であった。
〔披露された曲〕
○菅茶山の漢詩から
 「黄龍山に登る」
 「即事」 等
○葛原しげる作品
 「常盤木」「たんぽぽ」
 「トンビ」 等 

三、菅茶山先生墓参の集い 
 茶山の命日の8月13日(土)早朝、菅茶山墓地で、恒例の墓前祭を行った。コロナ感染者数増加の中であるが、藤田会長以下8名が参加。
 霊前に香を供え冥福を祈る。また今春に補修された茶山屋宇内の墓誌の解説と北條霞亭についての学習を行う。
・8月6日には墓地及び周辺の整備を役員で実施。
 楠の大木が伐採されたので、雑草が繁茂するようになり、日常の清掃が必要である
 
四、菅茶山顕彰会学習会
第一回学習会 6月27日 中条公民館と共催
 演題「菅茶山と中條村の文人達」
    ~河相君推と松風館十勝~
            講師 副会長 黒瀬道隆
・「象山献燈」
 河相君推の屋敷があったと言われる場所に大きな常夜灯が建っている。河相家は酒造業も営む豪農で、君推は河相家の入婿で和歌を好む文人でもあった。  この燈籠は「金毘羅山信仰」の標としての石燈籠であり、その財力が偲ばれる。君推と茶山は度々行き来する関係でもあった。
・ 茶山と文人サロン中條
 当時中條村には、漢詩や和歌に通じる文人が多く存在し、茶山は中條村に足繁く通っている。集った人物たちについて、茶山詩「黄龍山呈充国」(前
五‐二)の中に「充国の此に遊べるは今を距ること二十年なり矣。当時、唱和したる者、篁大道、大空上人、松井子?、諸人今は皆な在らず。独り河子蘭及び余存す」(元漢文)と記している。
・大空上人(黄龍山遍照寺上人)
・篁 大道(高村氏、中条八幡宮神官?)
・松井子?(高居の庄屋、医師を目指す)
・河相子蘭(大坊の庄屋)
 その足跡が詩碑として、遍照寺に3基、高居に2基建立されている。また、「上寒水寺路上」(前一―九)「圓通寺同諸子賦」(四-十四)「上廣山寺途中作」(遺稿集)などの詩を詠んでいる。 
・河相君推と松風館十勝  
「松風館十勝」については『西中條村村史』に記述があるが忘れられていた。昭和年15年濱本鶴賓・猪原薫一両氏によってその全容が明らかになった。

○「松風館十勝」名と揮毫した人物は
・松風館(頼杏坪) ・棣棠橋(倉成龍渚) ・鳥語澗(赤崎彦禮) ・鳴玉橋(菅恥庵) ・迎碧? (柴野栗山) ・浸翠池(山本北山)      
・紅於徑 (岩瀬華沼)  ・魚樂梁 (亀田鵬斎) ・垂白棚(紫 源)  ・娯論亭(菅茶山)
 揮毫は廉塾を訪ね来た儒者や茶山が江戸に赴いた際、依頼した有名な文人達である。

○松風館は客殿として建立された。
 石碑「迎碧?」は存在するが、松風館の面影を伝えるものはない。松風館で詠んだ詩から想像する。

 河相保之松風館同菅禮卿賦  頼 春水  
     河相保之の松風館に菅禮卿と同(とも)に賦す
 長松之下故人家 長松の下(もと) 故人(こじん)家
 鳴玉溪流不覺譁 鳴玉の溪流 譁(かまびす)しきを覚えず
 傳杯更愛幽香度 杯を伝え 更に愛す幽香の度(わた)るを
 屋角微風橘柚花 屋角(おくかく)の微風 橘柚(きつゆう)の花 

【大意】大きな松の木の下に、古くからの友の家がある。屋舎にあがると玉を鳴らすような泉水がちょろちょろ流れているが耳障りにはならず、快い音色を響かせている。酒を酌み交わしていると、どこからか、ほのぼのとした得も言われぬ香が鼻をくすぐる。さて、何の匂いだろうか。家の屋敷の隅の方か
ら吹く風にのってくる。ああ、橘柚の花のいい匂いだなあ。

○松風館を訪れた文人達
頼春水・頼杏坪・頼山陽・西山拙斎・永富充国・佐藤子文・梨木祐為・道光上人など

○松風館十勝の配置場所を推定する
・茶山顕彰会の推定地図 ~故武田武美氏の地図を部修正した。*詳細は菅茶山顕彰会のホームページ「菅茶山新報」を参照

第二回学習会 7月23日 於菅茶山記念館
  会員他18名参加
・菅茶山顕彰会30年を振り返える   
 藤田会長作成のpp映像で顕彰会30年の歴史を振り返る
・山下さん、ポエム絵画発表~茶山研究の欄に記載

第三回学習会 9月24日  於菅茶山記念館 ・テーマ「菅茶山と福山藩Ⅰ」 
 コロナ渦中、参加者16人。会員以外2名参加。シンポジュームスタイルも、ほぼ狙いどおり。報告者は2名の理事さんが担当する。
 ・松岡 明美さん~茶山の生きた時代
 ・川崎行輝さん~青壮年時代の政治批判詩
 ・急遽、クローザーとして救援を求めた黒瀬副会長には晩年の藩儒としての総括を務めてもらった。
発表者それぞれに個性もあり、発表時間簡潔。会場の雰囲気も学習会的で堅苦しくなかった。


第四回学習会 10月29日 於神辺公民館と共催
 福山城築城400年記念協賛 顕彰会公開講座

 ・テーマ「菅茶山と福山藩Ⅱ」
   ~政治批判詩から廉塾へ~
           講師 副会長 黒瀬道隆
?茶山の生い立ちと思想
①時代背景 老中田沼意次の賄賂政治と災害の頻発
②京坂遊学 計6回。4回目から朱子学へ
・西山拙斎、頼春水や大坂の儒者との交流
③茶山詩の題材
・紀行&交遊 宮島・芳野・京都・江戸など
・題画詩・画賛(絵画・掛け軸など)
・農村風景・子ども・弱者・政治批判詩など 
④福山藩 茶山は藩主4人~阿部正右・正倫・正精・正寧の時代に生きる。財政難の藩は重税を課す。結果として、農民の反発を招き再三にわたり一揆が頻発。宝暦・明和・天明の3回の百姓一揆を経験。権力による圧政は茶山の思想形成に影響を与える。  
⑤茶山の政治批判詩
・社会秩序が乱れた原因は、幕府・藩の政治が間違っており、「朱子学」を基本とした政治を行うべきであるとし、西山拙斎・頼春水などと政治批判詩を作っている。
・表現方法は直接的な批判を避け、鳥や石に擬人化したり、古代中国の話として詩を構成している。主な詩を挙げる。
「御領山大石歌」・「秋半」・「事情」・「歳杪放歌」・「歎晋」・「有鳥」三首・「西城」二首・「窮鄰」など
*頼山陽の「幕府の忌憚に触れん」の意見を受けて詩集『黄葉夕陽村舎詩』から除外した詩もある
*茶山と福山藩 
・藩からの弘道館出講や御家人要請を断っており、。その時の心境を詩に残している。

 雨中同賞庭下海棠 分得韻侵 時有辟命   『黄葉夕陽村舎詩』 前三―二
             雨中同(とも)に庭下の海棠(かいどう)を賞す 分ちて侵の韻を得る 時に辟命有り        
 幽粧笑倚短牆陰 幽粧(ゆうしょう)笑みて倚(よ)る短牆(たんしょう)の陰(かげ)
 時有狂蜂戲蝶尋  時に 狂蜂(きょうほう)戯蝶(ぎちょう)の尋ねる有り
 晝靜自堪供懶睡 昼静かにして自(おのづか)ら懶睡(らいすい)に供する 春寒誰共訴芳心 春寒 誰と共にか芳心(ほうしん)を訴えん
 風飄翠袖香仍淺 風は翠袖(すいしゅう)を飄(ひるが)えし 香 仍(な)ほ浅く雨洗紅肌艶未深  雨は紅肌(こうき)を洗いて艶(えん)未だ深からず        久托孤根安陋巷 久しく孤根(ここん)に托(たく)して陋巷(ろうこう)に安んじ        
 不須移植百花林 須(もち)いず 百花(ひゃっか)の林に移し植えるを

【茶山の心情】 春になっても寒い昼下がり、海棠の花を愛でながら、「久托孤根安陋巷 不須移植百花林」と詠んで、「ただ一本の根を頼みにして狭くむさくるしい町((神辺)に安住しているが、たくさんの花が咲き乱れる林に移し植えられたいとは思わない」と、病弱を理由に「弘道館」出仕を断っている。
・寛政の改革 田沼政治が終わり、老中松平定信による改革が始まる。昌平黌では「寛政異学の禁」が発せられ、朱子学が各藩に広まる。福山藩も藩主正倫による改革が始まるが、茶山は御家人登用を断る。
 
①新塾(現講堂)を建て「黄葉夕陽村舎」と名づける。 
・寛政8年、「郷塾取立願書」提出 学種を広めたい。また塾の永続を願い、願書提出。翌年許可。郷校「神辺学問所」「廉塾」となる。
②茶山詩の変化
 郷校となってからは、それまでのようは「政治批判詩」は、形を変えて「農村詩」へと移っていったが、その底流には農民たちを見る温かな眼差しあり、農村の閑かで鄙びた風景が詠まれ、素直な子どもの姿がを見ることができる。

○ 顕彰会として初めての公開講座。約40名が耳を傾けた。配付された冊子を基にパワーポイントを使った内容は、難解な漢詩でも理解が進んだのではないか。次の学習会が期待される。

五、「松風館十勝碑林・象山献燈案内板設置」
 「象山献燈」や顕彰会が中心となり建立した「松風館十勝碑林」へ見学に行こうとしても道がわからないという声が多い。冊子「河相君推と松風館十勝」を出版したこともあり、多くの人に知ってもらおうと案内板2か所にを設置する。 
 
六、「石碑を訪ねて」~菅茶山の世界~
  ケーブルテレビ井原放送 放送中
 菅茶山の業績を紹介する番組として、神辺町内に設置されている詩碑を紹介する月1回のシリーズ番組。案内者は黒瀬道隆氏(本会副会長)
 収録場所と詩碑
4月 一里塚跡「高屋途中」
5月 国分寺「聯句戯贈如実上人」
6月 廉塾・紅葉堂前「神辺驛」  
7月 萬念寺「夏目雜詩」松浦氏宅「農功」
8月 光蓮寺「十四日與嶺松赴鞆浦途中口占」
9月「箱田良助誕生の地」「箱田道中」
10月 寶泉寺 「送恵充上人之高野山」
11月 河相君推「象山献燈」と「松風館十勝」
12月 十勝碑林「松風館即事」・頼春水詩碑
1月 西福寺「西福寺賞梅」
2月 神辺公民館「丁谷餞子成卒賦」
3月 龍泉寺「龍泉寺櫻」
  今後の予定 
4月 東福院「閑行」
5月 故松井義典氏宅「時子?叔姪東遊」など
6月 遍照寺 「黄龍山呈充国」など
  
七、廉塾見学と菅茶山の石碑めぐり
           主催 神辺観光協会
 1月31日、織物体験と廉塾・茶山石碑めぐりが行われた。(石碑めぐりは2時間コース)
菅茶山の石碑めぐりコース
 廉塾保存工事の現状見学 (ボランティア)→西
福寺「西福寺賞梅」→紅葉堂前(神辺驛)→光蓮寺「十四日與嶺松師赴鞆浦途中口占」と天井絵拝観
→三日市通の町家見学(なまこ壁)→福海
 
展示会・講演会
一、菅茶山記念館2022年収蔵作品展 
 ◎ 特別展示「夏」 5月31日~8月21日
 (解説) 
・「菅茶山肖像画 岡本花亭賛」
  茶山70歳の時の風貌が描かれている。画賛は茶山自らが人生を回顧して詠んだ「自題画像」3首を岡本花亭が天保13年に書き込んでいる。肖像画の作者は不明。
・「村塾取立てに関する書付」(複製)
・「郷塾取立に関する書簡」(複製)
・「菅太中存寄書」(複製)
  これらは茶山が開塾の経緯や教育方針、藩に塾 を差し出すに至った動機、茶山の塾経営に関する 心得であり、遺書でもある。これらは茶山を知る
 うえで必修と言える。
・「田家」天明5年作
  茶山38歳、「目耕何似躬耕好」と自らの進路に迷う姿を詠う。揮毫は70歳。
・そのほか、「蛍七首」「太公望図」など

 ◎ 生誕130年記念 金島桂華展     7月15日~8月21日
  代表作~花鳥其二木蓮、椿や双鶴など多くの作品が展示され、多くの人々が鑑賞に訪れた。
 ○金島桂華(本名 政太 1892~1974)
 明治25年6月29日、福山市神辺町湯野に生まれる。幼少時から絵を描くことが好きで、上阪、19歳の時、京都竹内栖鳳の画塾「竹杖会」に入門、大正7年、初期文展に初入選、その後、華やかな受賞歴を経て昭和34年、芸術院会員京都画壇の重鎮として活躍。昭和44年、京都市文化功労者賞受賞、昭和49年9月16日死去。
 昭和54年、福山市名誉市民の称号が贈られ顕彰される。金島家は東福院の門徒で、寺には作品が蔵されている。

 ◎ 菅茶山第30回特別展
「菅茶山と備陽の人々」9月1日~10月10日
 ~師弟 黒田綾山&岡本豊彦の作品から~
 9月24日の茶山学習会で、茶山の壽詩画巻が話題になるが、表題のポスターの一面に黒田綾山画「鍾馗図」菅茶山賛が掲載されている。黒田綾山(讃岐高松 1755~1814)は、福原五岳に画を学び、諸国遊歴後、1785年頃、玉島に住んだ。弟子、岡本豊彦(倉敷 1773~1845)「梅花書屋図」菅茶山賛も出展。
 茶山と綾山・豊彦、いつ頃から接点があったのかは詳らかでないが、お互いに隣国同志、茶山や西山拙齋が着賛した作品が多い。また、黒田綾山は茶山の父、菅波樗平還暦60歳の祝いとして、『松鶴図』(賴春風賛)を寄せている。
 こうして故郷の巨峰茶山は近隣の備陽のみならず全国各地で多くの文人画家とも交流、江戸時代後期の文化芸術活動を築きあげ、今日に幾多の貴重な財を遺している。         (顧問 上泰二)
               
二、県博「菅茶山関係史料」ご案内
 草戸千軒ミュージアム(広島県立歴史博物館)の近世文化展示室では、博物館所蔵の重要文化財「菅茶山関係史料」の中から、通年展示の「菅茶山と廉塾」に併せてテーマごとの特別展示をしているので紹介する。
 (以下取材メモ)
 
第22回 4月1日~5月29日
特別展示「菅茶山と白河藩」             
 藩主で元老中松平定信を中心とした白河藩士たちと交流していた。松平定信は、古文化財図録『集古十種』編纂に当り、尾道浄土寺の「観世音法楽和歌」に興味を持ち、茶山にその写しが欲しいと側用人田内月堂を通して依頼している。展示作品には、定信から送られた磁杯や招待された浴恩園図のパネル、白河城下図、『集古十種』なども展示。

第23回 6月3日~7月31日
 特別展示「菅茶山と廉塾」
・「寛政九年素読所附田畑畝高平均引掛米等記録」では、藩に寄付した田畑の収穫高等が世話人(武十郎等)の報告した原本展示。
・「廉塾周辺図」文政八年頃の廉塾周辺の土地が細かい寸法で記載。廉塾・槐寮・南寮・新塾等が記載され当時の様子がわかる。
・講義で使用の書籍『世説新語』『蒙求』『唐詩選』『三体詩』などの書籍展示。

第24回 8月5日~10月2日
 特別展示「福山藩儒 菅茶山」
・「郷塾取立に関する書付」「菅茶山履歴書付」「福山志料」「風俗御問状答書」など茶山が藩へ提出した資料。
・「奉茶山菅先生東征詩?引」(武元君立作)の展示で、文化11年の江戸出府は、藩主正精の命であったが、老中松平信明が昌平黌の儒者として招聘する意図を感じており、茶山は断って帰国するつもりだと答えたと記している。

第25回 10月7日~12月4日
 特別展示「菅茶山と交流した藩儒たち」
・「対獄楼宴集当日真景図」」谷文晁画
 文化元年、菅茶山は柴野栗山の屋敷を借りて詩筵を開く。招いた儒者・画人たちが中国風の衣装で描かれている作品。展示では出席者の名前当てクイズが出されており工夫が凝らされていた。
・志村篤次はなし、奥州清蔵はなし       仙台藩儒志村篤次(東與弟)が漂流民について残した記録。中国船の船員を長崎に護送する聞き取りや大阪商人の船が安南国(ベトナム)から帰国し、乗組員清蔵を護送したことの記録写本

第26回 12月9日~1月31日
 特別展示「茶山が収集したモノ」
・ 茶山は若き日に京都へ6回に遊学し、享和元年(一八〇一)藩儒になってから2度の江戸勤めでは多くの文人達と盛んに交流した。また、漢詩人として著名な茶山に一目会おうと山陽道に面する廉塾には、各地の文人たちが旅の途中立ち寄った。これらの交流を通して、多くの文人の書や絵画、様々な情報が集まった。さらに、藩儒として藩内の歴史資料や考古遺物などを調査・収集し、その結果は『福山志料』に結実している。
・平安古宮廃城址瓦・蔀山石記・大宰府瓦硯・象図、中須村出土土器図、湯島聖堂平面図など
・神村出土銅鐸拓本は有名である。これは文化10年沼隈郡神村町万福寺跡地で出土。これは現在知られる県内出土の銅鐸3例の一つで、備後南部で唯一の事例だが、実物は伝わっていない。

三、 県博 博物館大学第3回
  演題「江戸時代後期の教育」~廉塾を中心に
   11月5日 広島県立歴史博物館講堂
   講師 岡野将士氏(当館主任学芸員)
・江戸の学び 寺子屋、私塾、郷校、藩校 
 寺子屋~読み書き算盤で日常生活に必要
 藩校~藩士の子弟教育 8才頃入塾  閑谷学校(岡山県)は藩主導の代表例
 郷校 廉塾は民間設立、藩の保護
・学問の内容 四書五経の素読、講釈、会読
 素読~読書の初級でひたすら読み暗誦
 講釈~経書の一章、一節を解読し講釈
 会読~生徒が集まり経典や章句について意見を交えて集団研究(共同学習)
・廉塾の学び・・廉塾規約(略)

四、 福山大学文化フォーラム2022 
 12月3日 福大社会連携推進センター
 「神辺本陣と神辺宿」
   講師 柳川真由美 福大准教授  講師 山口佳巳 比治山大学講師
〇柳川真由美先生(要旨)
・ 神辺本陣の普請と地域  普請に伴う資材や材木・石材・瓦・釘など)は近隣の村落で調達。
・芦田川から高屋川を利用、本陣の裏で陸上げしている。
・職人の多くは神辺平野を中心とする地域に住む大工の中には親子2代に亘って携わっている例も見られる。
・神辺本陣と神辺宿
 神辺宿は川北・川南村両村からなり、二つの本陣はいずれも川北村にある。しかし、両村の相互扶助によってこそ宿場町全体の賑わいと繁栄が醸成されるとして、代官宛「乍恐以書附奉願上」書付を上げる。
その内容は、東本陣は大名の宿泊を、西本陣(現神辺本陣)には公用の人々の宿泊を割り当て、東西二つの本陣と七日市と三日市集落の共存共栄を図ろうとしている

〇山口佳巳先生(要旨) 
  神辺本陣は現存する数少ない本陣で、往時(延享3年~寛延年間)の建築をよく残している点で文化財的価値が高い。本陣屋敷は正式で高級な書院造りに、数寄屋造りの意匠が取り入れられている。
 神辺宿では本陣のほか、江戸時代の民家が2棟確認されている。いずれも、座敷の角に角柱、それ以外の部屋に面皮柱を使用、当時の民家の特徴を裏づける重要な要素と言える。当地域には江戸時代から戦前まで幅広い年代の町家が現存している。宿場町から繊維業への変遷した歴史を残す町並みとして、今後の保存が期待される。(文責編集子)

福山城400年博イベント
 水野勝成が福山城を築城して400年を記念した様々なイベントが市内各地で実施された。福山城のライトアップやトークショウなど工夫された催しものも展開された。ここでは、神辺町内で実施された幾つかを紹介する。

一、神辺城下歴史まつり 主催 神辺町観光協会
    ~備後福山の源流をめぐる~
 10月16日(日)七日市通りを主会場として各会場で実施される。主なものを紹介
・「神辺城下まちおどり隊」  神辺ニ上がり保存会他
・大鍋「かんなべ汁」1000人分の豚汁を提供
・「神辺城下歴史文化紹介」古地図や写真展
・御領山ハイク、神辺城探検ツアーなど
・「廉塾保存整備見学会」~修繕状況の現地説明
・菅茶山顕彰会も協賛事業として「茶山ポエム町並格子戸展」を三日市~七日市通りに掲示

二、「備陽六郡志と宮原直?」講演会
        主催 宮原直?顕彰会
 10月29日 文化会館小ホール『備陽六郡志と宮原直?』発刊記念講演会として開催され、園尾裕氏・鐘尾光世氏・八幡浩二氏等が宮原直?や備陽六郡誌について解説される。「関藤藤蔭」などの顕彰会が消えていく中で先人の顕彰会活動が継続されることを願っている。
 *宮原直?(1702~1776)阿部家の下級武士の家に生まれる。勘定方に出仕するが讒言により閑職に。元文末年(1740)頃から75歳で没する安永5年まで約30年以上の永きわたり編纂作業に携わる。菅茶山編纂の『福山志料」には『備陽六郡志』から多くの記事が引用されている。 
 
三、 地域の小・中・高校生による 神辺本陣「動く江戸空間」
 11月6日(日)会場 神辺本陣・三日市通
   主催 菅波教育文化振興財団
 黒田家の行列が到着。高校生から小学生達が自作した陣笠や藁草履姿で堂々と行列し本陣に入る。
 本陣内では建物の説明や論語の素読など高校生ボランティアが活躍。また、お茶席も設けられ多くの見学者で賑わった。

四、 菅茶山顕彰会公開講座
・テーマ「菅茶山と福山藩Ⅱ」
     茶山学習会に詳細を掲載(13頁)
   
五、「神辺宿まちなみ講演会」と古民家リノベ工事現場見学会
        11月19日 会場 神辺公民館他
        主催 神辺宿文化研究会
〇「地域遺産」としての神辺宿       
      講師 佐藤圭一氏(福山大学教授)
・暫定定義~有形無形を問わず、地域の人々が守り後世に伝えたい地域の至宝で、旧街道宿場町の空間形成とその変容・転生・保全・継承として「神辺宿」を取り上げる。
・現在取り組んでいるもの~別所砂留、藺草栽培と備後表の保全・継承、鞆町の江戸期町家の創造的再利用、能舞台や能楽堂の予備調査と復元など
・「神辺宿」~神辺本陣・廉塾をはじめとして 虫籠窓になまこ壁、厨子二階や格子や駒寄を持つ町家が当時の面影を残している。
・現地調査で17軒の古民家を訪れたが、町並を入った路地にも古民家が多くあり、さらに調査が必要である。
・古民家を残すだけでなく、活用することも大切である。

〇古民家リノベ工事現場見学会
 旧菅波家住宅を改修し、カフェ開設のための工事現場見学会。古民家は活用されてこそ次の時代に伝えられる。
 この古民家は、尾道屋菅波家から分家した「川南菅波家」で、頼杏坪の手紙が額装し掲示されている。

六 湯田公民館歴史講座
 演題 なぜ福山城は「西国の鎮衛」なのか 
    講師 芸備近現代史研究会顧問 佐藤一夫氏
〇水野勝成の出自
 水野家は尾張・三河の境界辺を領地とし、信長・家康の勢力下に挟まれていた。勝成の父忠重は祖父忠正の九男。家康に仕えていた。一五八二年、尾張小牧・長久手の戦い(秀吉vs家康・織田信雄)で父の寵臣を斬り奉公構の上、勘当される。四国・九州などで転戦。天正年18(一五九〇)鞆に上陸。文録3年(一五八四)、備中成羽三村親重の食客となり、慶長2年(一五九七)、藤井利直娘於登久を娶る。翌年、2代藩主となる勝重(勝俊)が誕生。慶長4年(一五九九)、妻子を残し、上洛。徳川家康に謁見。家康のとりなしで、父忠重(実姉 於大=家康の実母)との勘当が解かれる。翌年、家康の會津攻め(vs上杉)で、父が暗殺され、刈屋3万石を継ぐ。慶長19年(一六一四)年大坂冬の陣、翌年、夏の陣で殊勲。大和郡山6万石城主となる。
〇 久松築城
 天正5(一六一九)年7月22日、大和郡山より備後転封を命じられ、海路鞆に到着。10万石余の領地引き渡しを受けた。神辺城は破却されていた(程度・櫓など福山城へ移築の信憑性は不明)ため、品治郡櫻山(奥へ入りすぎる)、沼隈郡簑島(海に浮かぶ・幕府が難色)、深津郡常興寺山の中から、現在地常興寺山に決定した。
〇 何故福山城は「西国の鎮衛」なのか
 福山城完成当時、中四国・九州には53家の大名中、譜代大名は豊後日田石川忠総と水野勝成だけ。後は外様大名。そこに、西国鎮衛の城としての意義がある。
 そこで、築城に当って、幕府も一国一城令下、資金援助などを含め特別な配慮をした。
 正式名称は「鐵覆山朱雀院久松城」。築城と並行して造った城下町福山にあることから、福山城と呼んだ。
①攻撃の難しい大規模な城
 城郭(本丸・二の丸・内堀・外堀)を中心に、外部要塞として寺社を配置、吉津川や入川、奈良津・藪路など二街道を通すなどして、庶民に周囲の荒れ地を地子諸役等御除地として町並み作りを奨励、近国諸所より多くの人を集めた。
②戦さ上手の水野氏の居城
・大坂冬の陣・夏の陣の殊勲者 (この冬・夏の陣に20歳以上で参戦、島原の乱にも加勢した武士は5人)
・島原の乱に於ける戦略上の指揮官 
 総大将松平信綱+水野日向守宛派遣命令
・水野勝成・勝俊・勝貞のバックアップ要請
(勝成・勝俊=大坂夏の陣当時20歳以上の5人中2人)             (文責 編集子)
 
黄葉だより
一、 堂々川ホタル同好会総括in 2022
  ~ ホタルと花と砂留+大石岩と古墳群 ~

 わが会報第18号(2008年)に堂々川ホタル同好会の起源に遡及する当時の土肥徳之事務局長の熱烈な思いが綴られている。
 所載記事によれば、土肥氏が「茶山先生が江戸の昔眺めたであろう『黄色い光に魅せられて』」、同好会設立準備を開始したのは、2004年のこと。
 その後、営々として、ひたむき、ひたすら、ひとすじに、テーマ ホタルと花と砂留と 定例日、会員、原則「精勤」の活動を開始する。情報紙も2006年5月創刊、2003年12月号を以て、16年7カ月の年輪を刻み213号に到達した。最近、Lineによる会員相互のコミュニケーションを開始した。
〇土肥徳之会長から中山晋一会長へ
 この節目の年に、第3代土肥徳之会長80歳が引退、中山晋一氏が第四代会長に就任。
 土肥氏は特に請われて、この一年間、事務局長として後見役を務めたが、今年度限りで引退を明言している。意を尽くしきれないが、「長い間、大変ご苦労様でした。奇しくも、2023年1月9日、2022年度受賞式で、木村実愛さん(県立松永高校二年)の堂々川砂留をバックに、無数のホタルが乱舞する作品が最優秀賞に選ばれた。天知る、地知る、自他知る、土肥氏の徳行に対する何よりの贐になった。
〇今年度、ホタル飛翔数は市内ナンバーワン、彼岸花の開花数は県下トップ
 福山市の新たな観光地として多くの観光客を集め、地方創生の活力源としての期待から、すでに水車小屋を新設、次いでトイレの改修工事が計画されている。
 一方、ゴミのポイ捨て、猪の被害対策など、それに最重要課題「地域の安心安全を守る」砂留保全活動、福山市当局等からの支援・協力はあるが、随分、タフで継続を要する活動である。
 幸いにも、今や定例事業に関わって、その実績こそが「環境保全功労賞」など数多の公的機関からの表彰、一般財団法人等からの助成を生んでいる。折にふれてのマスメディアの応援歌なども、心の支えとして後押ししてくれるように思う。
〇本年は福山城築城400年博市民企画事業としてこれまでの活動を集大成
 「ホタルと花と砂留と~砂留周辺を観光地に」DVDが採択され、製作。12月に関係者に送られた。「御領の山 ルートマップ」(神辺町観光協会)も同封されている。また、1月26日には「ふるさと体験史跡めぐり」も実施された。
 今こそ、「ONE TEAM 神辺」を目指してもらいたい。          (文責編集子)
 
二『江戸時代の神辺宿 神辺本陣』
          菅波哲郎氏が出版される
 現「神辺本陣」(神辺西本陣)は菅茶山が弟子の中から白羽の矢をたてた第11代目菅波信道が遺した絵図付自叙伝「菅波信道一代記」、先代菅波堅次著「神辺風土記」、現当主菅波真吾氏が付設した「神辺本陣資料館」、末弟菅波哲郎氏主宰の研究グループ「神辺宿研究会」などともども、温故知新or 覧古照今、高齢化・少
子化、それにコロナ禍の中、ふるさと再生の起爆剤への希いを託しての全国八街道の本陣・脇本陣、全国行脚であったろう。
 先ず、この書籍の帯封に注目してほしいと菅波氏。本陣の建物を背景に、大名行列、当時の市井風俗図が克明に描かれている。今様に云えば、PP付、原本として類例のない貴重な木版図が挿入されている。「第一章 神辺宿と神辺本陣」1977年11月、宮城県から「第四章 実見した本陣・脇本陣と神辺本陣」2020年9月、山口県まで。
 残念ながら、茶山ゆかりの東本陣はすでに消滅してしまっている。西本陣代々の主人の苦労が偲ばれる。一日でも早い国重要文化財の指定が待ち望まれる。
 今、神辺本陣の建造物については、福山大学柳川真由美准教授が研究を継続されている。(会報第30号参照)   (本会顧問 上泰二)
             
茶山ポエム絵画展
 二〇二二年度度茶山ポエム絵画展受賞式 
  豊かな子ども心に触れる作品一堂に

 1月7日(土) 菅茶山記念館で受賞式が開催された。残念ながら、コロナ感染予防対策のため、出席者は最優秀受賞者と来賓・学校関係者に限定され行われた。
 当日、菅茶山記念館内には、入選した町内外の幼小中高校の児童・生徒たちの作品が所狭しと掲示された。どの絵画も茶山詩に触れ、感じたイメージを基に描いた力作ばかりで、子ども達の豊かな心に触れることができる。応募作品は三二二三点で、その内から502点の入賞作品が選ばれた。

絵画展は次のとおり実施された
 期間 1月7日から1月29日まで
 場所 菅茶山記念館

入選点数 計502点 ・最優秀賞8点 ・優秀賞102点 ・入選392点

応募学校数
・保育所幼稚園 2園 ・小学校 8校  ・中・高校 8校

部門別最優秀賞受賞者は次のみなさん(敬称略)
・熊谷 綸 (誠信幼稚園)「梅」
・藤本 蒼央(中条小1年)「雪の日」
・山室 諒馬(中条小2年)「ホタル」
・岡崎 桜美(竹尋小3年)「ホタル」
・矢野 新汰(湯田小4年)「夕日」
・大谷 優心(御野小5年)「夕日」
・高  楽児(道上小6年)「冬夜読書」
・木村 実愛(松永高校) 「ホタル」

【講評】 審査委員長石岡洋三氏講評より抜粋
 ○幼稚園や低学年の子どもたちは、画面いっぱいに梅やホタルを画面いっぱいに力強く描いている。
また、高学年の「夕日」は今までの作品と違って、山が夕日に照らされ真っ赤に染まっている状況を描き切っていることに感心した。
 ○最優秀の作品「ホタル」は堂々公園の砂留にホタルを飛ばすという砂留とホタルの融合が素晴らしく中高校生の作品が最優秀となったのは初めてである。
 〇茶山ポエム展を支える
 茶山ポエム絵画展の保育所・幼稚園・小中学校・高校への募集要項配布・応募作品の受付、展示パネルの準備は菅茶山記念館が、審査は美術協会の皆さんが担当されている。顕彰会の役割は、絵画の名札付けや作品の掲示と撤去の支援などである。ポエム絵画展が今後も継続するよう支えたいものである
 〇ポエム絵画展を広く知ってもらうために
 保・幼・小・中・高校生の茶山ポエム作品を広く紹介するとともに、創作意欲を高めるために様々な機会を通してその作品を掲示する取り組みを行っている。今年は、新たに神辺図書館のご好意で、館内に64作品を4期に分けて展示を行うことができた。 
 
  
 ○神辺図書館展   6月22日~8月16日
 ○深安地区医院展(15医院)  8月1日~31日
 ○深安地区歯科医院展(10医院)  11月1日~31日
 ○市役所ロビー展 9月5日~9日  
 ○神辺支所エントランス展 12月13日~23日
 ○かんなべ町並格子戸展  10月16日
  「神辺城下歴史まつり」(観光協会主催)に協賛し60点を1日限定で展示。
・町並格子戸展は、例年春・秋の2回展示するが、「神辺城下歴史まつり」に協賛した展示だけとな
った。 



 編集後記
◇ 昨年は「ロシアのウクライナ侵攻」「コロナ感染第7波・8波」「安部元首相の襲撃事件と旧統一教会問題」「円安と物価高」などが連日報道され、明るい話題が多くなかった。
◇ 大学改革が進められ、「大学入試センター試験」も変わってきている昨今である。さらに「理系関係学部」の重要性が議論され、「文学部関係」が肩身の狭い状況にある。中学・高校では漢文・古文の時間が削られ、生徒たちが漢詩に触れる機会がなくなりつつあるのではないか。
◇ 菅茶山は「郷塾取立に関する書簡」の中で「文なくハ武も根本なく統紀なく、武ありても真の武にあらず・・」と文学の重要性を説いている。国語の元祖漢字が、肩身の狭い思いをしている。さらには、菅茶山詩が忘れられていくのではないかという危惧を持つのは私一人であるまい。菅茶山顕彰会が多くの「学種」を播くことができればと願っている。
◇ 紙面をA4サイズに変更。読みやすくするために文字も大きく、写真を多く掲載した。ご意見・ご感想をお待ちしている。
◎菅茶山顕彰会事務局
 武田 恂治
  連絡メールinfo@chazan.click
◎会報編集委員
黒瀬道隆、上 泰二、川崎行輝、山下英一、藤田卓三、松岡明美、嶋田時市、
◎ホームページ「菅茶山新報」
      http://chazan.click
◎印刷所 社会福祉法人一れつ会 ウイズ